2014年12月18日

与謝蕪村生誕地が改めて証明された

江戸時代の3大俳人・与謝蕪村の生誕地が、
大阪市毛馬町であることが学説として定まったのは、
何と終戦直後でした。
それまで江戸時代から明治・大正・昭和20年頃に至るまで、
蕪村生誕地は諸説が出回り、
確定していなかったのですが、
奈良県の学者によって毛馬町生誕地だと証明されたのです。

この学説が出されたのが遅かった所為か、
「蕪村生誕地が大阪毛馬町」であることは、
残念ながら地元大阪でも、
全国にも広まっておりません。

ところが、このほど改めて蕪村生誕地が毛馬町であることを証明する
画期的な「証拠」が出現したのです。

これには目を剥き、歓喜に覆われました。

というのは先月末滋賀県で、
これまで蕪村の幻の大作と云われる「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が、
蕪村自作絵画と、92年ぶりに確認されたのです。
しかもこの蕪村が描いた絵の署名に、
「蕪村生誕地」が大阪毛馬町であることが明記されたていたのです。
蕪村自作絵画鑑定の署名ですから、
間違いはありません。

これは終戦後の「学説」が出て以来の、
「蕪村生誕地」が改めて裏付けされる証左となりました。
詳しくはこれから追々。

まず前記のように、この「蜀桟道図」が、
与謝蕪村が晩年に描き、所在が分からなくなっていた作品でしたが、
滋賀県甲賀市の美術館が鑑定した結果、
92年ぶりに所在と自作絵とが確認されたとして、
公開されました。

「蜀桟道図」は蕪村が亡くなる5年前、
1778年に描いた作品で、
縦およそ1メートル70センチ、横1メートル近い大作。
1800年ほど前の中国の風景が絹地に墨と淡い色彩で緻密に描かれ、
蕪村が晩年、絵画を描く際に使った
「謝寅(しゃいん)」という署名が残されています。
まずこれが大切なことです。

作品は、蕪村の愛好家として知られた実業家が
1922年に出版した「蕪村画集」に収録されていましたが、
その後、所在が分からなくなっていました。
最近になってシンガポールの会社が所蔵しているという情報があり、
滋賀県甲賀市の美術館が鑑定し、確認出来たというのです。

与謝蕪村の研究を続けている関西大学文学部の藤田真一教授は、
この蕪村絵を観て「作品の大きさに驚き、表情豊かな人物の描き方とともに
蕪村の意気込みを感じた。
蕪村にとって美術と文学が切り離せないということを
改めて示した作品だ」と話しています。

「蜀桟道図」は、来年3月に東京で公開されたあと、
7月から甲賀市の「MIHOMUSEUM(ミホミュージアム)」で
一般公開されます。
<参考:NHKニュース>

さらに詰めて行きますと、
この蕪村自作絵の末尾に、
「生誕地」が大阪毛馬町であると証明する
「蕪村署名」が書かれていたのです。

<読売新聞によりますと、
この「蜀桟道図」は、中国四川省北部に行くための険しい道
「蜀桟道」を画題とし、
縦167・5センチ、横98・9センチの絹地に墨と淡彩で山や空を描写。
遠近感や奥行きを表現しながら、
道を行く人々を軽やかなタッチで描いている。>
と、書いています

ここからが、貴重な記述です。

<この絵の画面右上に、
「(とうせいしゃいん)東成謝寅」という署名を、
自筆で書いています。
実は「謝寅」は、蕪村が晩年に使った号で、
生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する
「東成」を冠したとみられるのです。>。

ということは、
蕪村が生誕地を証明する見事な「署名」と残したと云わざるを得ません。

<しかも安永7年(1778年)、
制作を依頼した俳人にあてて蕪村が、
「『蜀桟道図』を完成させて送った」と書いた手紙の写しも残っており、
亡くなる5年前のこの年の作品であることが分かる。>
と、読売新聞は記しています。

つまり、蕪村が晩年に使った「謝寅」の号に、
生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する
「東成」を冠したことが、自ら生誕地を「署名」で残したことになり
、改めて「生誕地」が明らかになったのです。
望郷の念が在りながら、
「生誕地」を明らかにしたがらなかった蕪村にとっては、驚きです。
死期の切迫を感じたため、敢て「署名」で告げたのでしょうか。

蕪村生誕地が毛馬町であることが、
自作の絵画と鑑定された「蜀桟道図」の「謝寅」の号の署名によって、
改めて証明されたことは、
終戦直後の定まった「蕪村生誕地」以来、遂に更なる「証」となったのです。
このような滋賀県甲賀市美術館で鑑定は、実に素晴らしいことです。

とにかく上記の新証明は、
筆者主宰のNPO法人と大阪市立大学と共同で立ち上げている
「蕪村生誕300年行事実行委員会」の行事具体化躍進に貢献し、
同時に「蕪村生誕地毛馬町名」を一層広げるでしょう。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| コラム | 更新情報をチェックする

2014年12月17日

蕪村生誕地を証明した「一通の書簡」

松尾芭蕉、小林一茶と並ぶ江戸時代の俳人与謝蕪村の生誕地が、
大阪毛馬村(大阪市都島区毛馬町)だということは、
江戸時代当時から知れ渡っていると思っていた。

仮にそうでなくとも、明治時代になって、
蕪村俳句を初めて評価し世に紹介した正岡子規が、
毛馬生誕地は把握し、
世に広めていたに違いないと思っていたからだ。

ところが、事実は全くそうではないことが明らかになり、
驚かされた。

それの事を知らされたのは、
NPO法人近畿フォーラム21主催「蕪村顕彰俳句大学」講座で
講師をお願いしている、
蕪村研究第一人者の関西大学文学部の藤田真一教授と、
懇談した時であった。

結論から先にいうと、
蕪村生誕地が大阪毛馬であることが「定説」になったのは、
実は終戦直後のことだということだった。
奈良県でこれに纏わる「蕪村直筆の書簡」が見つかったのが、
キッカケだったというのである。

藤田教授の話によると、次のようなことだった。

(蕪村は、自分の生誕地のことは、
俳人・画人として活躍していた江戸・京都でも、
何故か余り触れたがらず、
主宰の「夜半亭」の弟子たちにも語ったという
明確な「記録」は残されていないという。
このため、蕪村の生誕地を確知していた者は、
いなかったのではないかというのだ。

ところが蕪村は、安永六年(1491)に発刊した冊子
「夜半楽」(二十頁ほど)の冒頭に、
「春風馬堤曲」を書き、毛馬村側の淀川の馬堤に触れ、
十八首の俳句を添えている。
が、残念なことにその舞台となる馬堤近くが
自分の「生誕地」だとは一切触れていない。

想像してもこの書き方では、
「生誕地を毛馬村」と結びつけることは出来ない。

しかし、その後願ってもないことが起きていた。

蕪村は、この「夜半楽」冊子を贈呈した
大阪在住弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きの「書簡」の中で、
自分の生誕地が毛馬村だと、
下記のようにはっきりと綴っている。

春風馬堤曲―馬堤は毛馬塘(けまのつつみ)也。
即、余が故園(注釈・ふるさと)也。
余幼童之(の)時、春色清和の日ニは、
必(かならず)ともどちと此(この)堤上ニのぼりて遊び候。
水ニハ上下の船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ」。

それなら、これが物証となって、
江戸時代から毛馬村が生誕地だと定説になっても良かったのだろうが、
そうならなかったのには理由がある。

というのは、江戸時代の発刊諸本には複製本が多く、
勝手に削除・加筆されることが多々あった。
このため「夜半楽」の弟子への添え状ですら、
複製なのか、それとも蕪村直筆のものか判定出来ず、
結局「蕪村生誕地複数説」を加速させる結果を招き、
生誕地説は宙に浮いたままの状態だった。

しかし、前記の如く、
奈良県で終戦直後偶然見つかった弟子の柳女・賀端(がつい)に宛てた
添え書きの「書簡」が、「蕪村直筆」だと、
公式に「認定」されたため、「毛馬生誕地」説が確定した。
終戦直後の認定だから、遅きに失したと言わざるを得ないが、
これは「蕪村生誕地複数説」を破棄し、
毛馬村を生誕地とする歴史的且つ画期的「決め手」となったことになる。

しかも「春風馬堤曲」冒頭の記述の淀川風景の描写や添付十八首と、
柳女・賀端(がつい)に宛てた添え書きへの想いを結びつけて考えると、
「毛馬村への切ない郷愁」を浮き彫りとなる。

以後、生誕地が毛馬村であることを不動のものになったことになる。
この経過を考えると、
蕪村生誕地を定めた一通の「蕪村直筆書簡」の存在は、実に大きかった。

これが「認定」されていなかったら、
蕪村が大阪俳人として登場することも無かったことになるだろう。)

こうして、蕪村が大阪生誕の俳人と称されるようになってから
七十余年しか経たない。
そのため蕪村は、芭蕉や一茶とは異なり、
江戸時代以来、
生誕地大阪で「蕪村生誕顕彰」が疎かにされてきたことに繋がってきており、
誠に慙愧に絶えない。

このために、今ですら地元大阪で
「蕪村生誕地が毛馬村」であることを知らない市民が多い。
次世代を担う児童生徒の学習にすら上がっていないことを考えると、
児童生徒が生誕地のことを知らないことも当然のことだろう。
残念で仕方がない。

だから、われわれ「蕪村顕彰俳句大学」では、
二年後の蕪村生誕三百年に向けて、
「三百年記念諸行事」を開催し、俳句文化活性と後世への伝承、
そして国際化への発信を大々的に進めたいと考えている。

余談ながら藤田教授との懇談の中で、
更に驚いたことがあったことを記して置きたい。

「蕪村は淀川を下って源八橋から船を降りて
浪速の弟子のもとに往き来きしていたようですが、
それほど郷愁があったのなら、
極く近郊にあった毛馬村の生家に立ち寄るのが自然だと思うのです。そ
の痕跡はありませんか」

答えは「それを証明する歴史書類はありません。
立ち寄ったか否かどうかも、わかりませんね」
ということだった。

となれば、生誕地への郷愁は人一倍あったとしても、
生誕地へ何らかの理由で寄りたくない気持ちがあったのだろうという
推察が浮上してくる。

恐らく奉公人だった母と実家の父が亡くなってから、
家人たちによる極めつけの「いじめ」があり、
そのために十七・八歳で家を出ざるを得なかったのではないか。
そのことが「生家には生涯立ち寄らなかったこと」に
結びついているのではないだろうか。

これはあくまで私の推論である。

最後になりましたが、
どうか、二年後に向けた私たち主催の「蕪村生誕三百年記念諸行事」の開催に、
是非共皆様のご賛同とご支援をお願い申し上げます。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| コラム | 更新情報をチェックする

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