2014年12月21日

淀川の河底にある「与謝蕪村の生家」

江戸時代の俳人与謝蕪村の生家は、
淀川の河底に埋没しているのは間違いないのですが、
一体河底の何処に埋没させられて仕舞ったのでしょうか。
詳しい場所は未だ不明です。
確かに、大阪毛馬の淀川堤防に「蕪村生誕地」と書いた
「記念碑」が建立されてはいます。
しかし「蕪村生誕し幼少を過ごした生家」は、
この場所ではないことははっきりしています。

実は「蕪村の生家」が、冒頭に記したように、
淀川堤防から眼下に見える「淀川の川底」に在るのは事実です。
なぜ淀川の川底に埋没されたのでしょうか。これは追々。

徳川時代の淀川は、よく手入れが行われていましたが、
明治維新後は中々施されていなかったのです。
ところが、明治18年に淀川上流の枚方で大水害が起き、
下流の大阪で大被害を受けたことをきっかけに、
明治政府がやっと淀川の本格的改修に乗り出しました。

その際明治政府は、単なる災害防止ためだけではなく、
大阪湾から大型蒸気船を京都伏見まで通わるせる航行で
「経済効果」などの多目的工事に専念することを決めました。

そのために淀川の河川周辺の陸地を大幅に埋め立て、
それまでの小さな淀川を大きな河川にする大改修を立案したのです。

これに伴い、旧淀川沿いにあった
「蕪村生家」地域は埋め立ての対象となり、
すべて「河川改修工事」によって川底に埋められて仕舞いました。

さて、明治政府は関西の大型河川・淀川を大改修するため、
オランダから招いた河川設計者・デ・レーケとフランス
留学から帰国していた設計士沖野忠雄とを引き合わせ、
「淀川大改修」の設計を依頼しました。

明治政府の依頼を受けた2人は、
「大改修工事」の設計を創り上げ、
明治29年から工事を開始しました。

とにかくこの大型改修設計は、大阪湾に京都の宇治川や桂川、
奈良からの木津川を中津川に合流させ、
一気に淀川として大阪湾に繋ぐ、巨大な設計でした。

そうすれば貨物蒸気船を大阪湾と京都を結んで航行させることが出来、
逆に京都・枚方などで大水害が起きた場合でも大量の水量をさらりと、
大阪湾に流すことが出来るのです。二本立ての「効果狙いの設計」でした。

勿論、上流の災害で流出してくる「土砂」が、
大阪に被害を与えないため「毛馬閘門」設計も創りました。

これが淀川から大阪市内に分岐させる「毛馬閘門」の設計主旨だったのです。
この「毛馬閘門」からは、
淀川本流から分岐して大阪市内へ流れる河川を設計しました。
その河川の名を「大川」と名付けたのです。

この「大川への分岐設計」で、上流の水害に伴う土砂流失の回避は実現し、
大阪の上流からの防災は、今日まで護られているのです。

このように2人による設計書は、世界の河川工事技術水準に準じたもので、
明治政府が施工した「河川大改修工事」としては
全国的に見ても画期的なものでした。

同工事は、明治29年から明治43年まで行われ、設計通り完成しました。

ここから本題。この「河川大改修工事」によって、与謝蕪村が生まれ、
幼少を過ごした大阪市都島区毛馬町(摂津国東成郡毛馬村)は、
跡形もなく淀川に埋没させられ、深い川底に沈んで仕舞いました。

明治政府の強制でしたから、当時の住民は仕方なくそれに従ったようですが、
川幅も660㍍(従来の30数倍)となり、
浅かった河の深さも5㍍の巨大河川に変容したのです。

この住居埋没の強制工事で、前述の如く、
蕪村の生家(庄屋?)は勿論、お寺、菜の花畑、毛馬胡瓜畑跡などの、
当時の地域の様子は皆目全くわかりません。
今は淀川の毛馬閘門近郊にある蕪村記念碑から、
淀川の眼下に見える川底が
「蕪村が幼少を過ごした生家地域」だと想起出来るだけで、
寂しい限りです。

淀川近郊の蕪村家(庄屋)の後継者の方といわれる毛馬町の家を訪ね、
「家歴」を伺いました。
しかし、「地図も無いし、お寺も埋没して「過去帳」もないために、
蕪村生誕地が淀川の河底にありことは間違いないですが、
今でもどのあたりの河底にあるのか分かないのです。」
という答えが返って来ただけでした。

「蕪村生誕300年記念」を、2016年に迎えます。
どうか大阪毛馬町の「蕪村公園」と通り過ぎて、
「毛馬閘門」と「蕪村記念碑」ある淀川堤防の上から眼下に流れる「淀川」を見ながら、
その河底に蕪村生誕地があることを想いつつ、
蕪村が幼少期をここで過ごしたのかと、ゆったりと瞑想して欲しいですね。

取材先:国交省近畿地方整備局淀川河川事務所

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2014年12月19日

一茶だけしか分からない「生誕日」

与謝蕪村、松尾芭蕉と並んで江戸時代の三大俳人と言われる
小林一茶の「生誕250年を祝う」催しは、
出身地の長野県信濃町で毎年華やかに開かれている。

一茶は、今から371年前、江戸時代後期1763年=宝暦13年の5月5日に、
今の信濃町で生まれた。

大阪の与謝蕪村は、享保元年(1716年)、
大阪市都島区毛馬町(当時の摂津国東成郡毛馬村)で生またが、
肝腎の「生誕日」は、残念ながら今でも分からない。

しかも芭蕉も、同様に「生誕日」が不明。
寛永21年(1644年)三重県伊賀市生まれたのは定かだが、
「生誕日」はが分かっていないのだ。
厄介なことに、生誕地そのものも、
赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と、
柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説あり、
困惑させられている。

だから、確かな「生誕日」に「お祝い」出来るのは小林一茶だけということになり、
蕪村と芭蕉を顕彰する人達にとっては、大きな悩みだ。

となれば、蕪村の「生誕日」が定かではない以上、
2年後の2016年の「然るべき時」、多分秋の良い日を選んで、
「生誕300年の記念祭」を大阪毛馬町にある「蕪村公園」で、
大阪市立大学と共同して開催したい方針だ。

そこで、余り知られていない俳人小林一茶の生涯等を、
この際綴って置きたい。その訳はこのあと追々。

小林一茶は、宝暦13年5月5日(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿
(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生まれた。

3歳の時に生母を失い、8歳で継母がやってくる。
しかし継母に馴染めず、安永6年(1777年)、
14歳になった時、郷里を離れて江戸へ奉公に出向く。

25歳のとき、小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶことになり、
一茶の俳諧への取り組みが開始される。

寛政3年(1791年)、29歳の時、一旦故郷に帰り、
翌年から36歳の年まで俳諧の修行のために、
近畿・四国・九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。
病気の父を看病するが、1ヶ月ほど後に父は死去。
以後遺産相続を巡り、継母と12年間争うことになる。

一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつも、
遺産相続権は争い続ける。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、
その2年後28歳の妻・きくを娶り、3男1女をもうけるが、
皆幼くして亡くす。
きくも、痛風がもとで、37歳の生涯を閉じた。

62歳で2番目の妻(田中雪)を迎える。
しかし老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。

64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける。
やたは一茶の死後に産まれ、
父親の顔を見ることなく成長するものの、
一茶の血脈を後世に伝える。1873年に46歳で没。

一茶は、文政10年閨6月1日(1827年)、
柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、
焼け残った粗末な「土蔵」暮らしをするようになる。

そして、その年の11月19日、
その土蔵の中で、64年半の生涯を閉じる。
法名は釈一茶不退位。

さて、<一茶俳句の作風>だが、

幼少期を過ごした家庭環境から、
いわゆる「継子一茶」、
義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、
風土と共に生きる百姓的な視点と、
平易かつ素朴な語の運びに基づく「句作」が目を引く。

その作風は与謝蕪村の天明調に対して、
化政調と呼ばれている。

<代表的な句>は

雪とけて村いっぱいの子どもかな

大根(だいこ)引き大根で道を教へけり

めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春

やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり

悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん

やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする

名月をとってくれろと泣く子かな

これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺

うまさうな雪がふうはりふうはりと

ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)


序でながら、<一茶の作った句の数>のことだが、
句数は約2万句と言われ、
芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。

しかし、よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、
「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の「類句」があり、
これを1句とするか3句とするかは、議論の分かれる。
<参考:ウィキペディア>

以上、一茶生涯を掲載してみた。

ところがここで述べたかったのは蕪村が、
「生まれた毛馬村」で父母の死後、
私生児として味合う精神的軋轢と自虐的苦悩が、
一茶の感慨と極めて類似したところが多々あることだ。

これが、一茶の生涯を明らかにすることによって、
蕪村と重なる予期しない苦衷の共通点が見つかり、
そのことを書き留めて置きたかった。

筆者主宰の「NPO法人近畿ホーラム21」では、
大阪俳人・蕪村顕彰のために「生誕300年記念行事実行委員会」を、
前述のように大阪市大と共同して、
地元の協力を得ながら大々的に実施したいとして、
今、諸行事を準備している。

「生誕日」が分からない蕪村だが、
小林一茶の「生誕日祝賀」に劣らないような記念行事を、
2年後の秋にでも大阪市・大阪府・関西・大阪21世紀協会などの支援を求めて開催し、
大阪の文化振興に貢献したいと考えている。
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2014年12月18日

与謝蕪村生誕地が改めて証明された

江戸時代の3大俳人・与謝蕪村の生誕地が、
大阪市毛馬町であることが学説として定まったのは、
何と終戦直後でした。
それまで江戸時代から明治・大正・昭和20年頃に至るまで、
蕪村生誕地は諸説が出回り、
確定していなかったのですが、
奈良県の学者によって毛馬町生誕地だと証明されたのです。

この学説が出されたのが遅かった所為か、
「蕪村生誕地が大阪毛馬町」であることは、
残念ながら地元大阪でも、
全国にも広まっておりません。

ところが、このほど改めて蕪村生誕地が毛馬町であることを証明する
画期的な「証拠」が出現したのです。

これには目を剥き、歓喜に覆われました。

というのは先月末滋賀県で、
これまで蕪村の幻の大作と云われる「蜀桟道図(しょくさんどうず)」が、
蕪村自作絵画と、92年ぶりに確認されたのです。
しかもこの蕪村が描いた絵の署名に、
「蕪村生誕地」が大阪毛馬町であることが明記されたていたのです。
蕪村自作絵画鑑定の署名ですから、
間違いはありません。

これは終戦後の「学説」が出て以来の、
「蕪村生誕地」が改めて裏付けされる証左となりました。
詳しくはこれから追々。

まず前記のように、この「蜀桟道図」が、
与謝蕪村が晩年に描き、所在が分からなくなっていた作品でしたが、
滋賀県甲賀市の美術館が鑑定した結果、
92年ぶりに所在と自作絵とが確認されたとして、
公開されました。

「蜀桟道図」は蕪村が亡くなる5年前、
1778年に描いた作品で、
縦およそ1メートル70センチ、横1メートル近い大作。
1800年ほど前の中国の風景が絹地に墨と淡い色彩で緻密に描かれ、
蕪村が晩年、絵画を描く際に使った
「謝寅(しゃいん)」という署名が残されています。
まずこれが大切なことです。

作品は、蕪村の愛好家として知られた実業家が
1922年に出版した「蕪村画集」に収録されていましたが、
その後、所在が分からなくなっていました。
最近になってシンガポールの会社が所蔵しているという情報があり、
滋賀県甲賀市の美術館が鑑定し、確認出来たというのです。

与謝蕪村の研究を続けている関西大学文学部の藤田真一教授は、
この蕪村絵を観て「作品の大きさに驚き、表情豊かな人物の描き方とともに
蕪村の意気込みを感じた。
蕪村にとって美術と文学が切り離せないということを
改めて示した作品だ」と話しています。

「蜀桟道図」は、来年3月に東京で公開されたあと、
7月から甲賀市の「MIHOMUSEUM(ミホミュージアム)」で
一般公開されます。
<参考:NHKニュース>

さらに詰めて行きますと、
この蕪村自作絵の末尾に、
「生誕地」が大阪毛馬町であると証明する
「蕪村署名」が書かれていたのです。

<読売新聞によりますと、
この「蜀桟道図」は、中国四川省北部に行くための険しい道
「蜀桟道」を画題とし、
縦167・5センチ、横98・9センチの絹地に墨と淡彩で山や空を描写。
遠近感や奥行きを表現しながら、
道を行く人々を軽やかなタッチで描いている。>
と、書いています

ここからが、貴重な記述です。

<この絵の画面右上に、
「(とうせいしゃいん)東成謝寅」という署名を、
自筆で書いています。
実は「謝寅」は、蕪村が晩年に使った号で、
生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する
「東成」を冠したとみられるのです。>。

ということは、
蕪村が生誕地を証明する見事な「署名」と残したと云わざるを得ません。

<しかも安永7年(1778年)、
制作を依頼した俳人にあてて蕪村が、
「『蜀桟道図』を完成させて送った」と書いた手紙の写しも残っており、
亡くなる5年前のこの年の作品であることが分かる。>
と、読売新聞は記しています。

つまり、蕪村が晩年に使った「謝寅」の号に、
生まれ故郷の摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)を意味する
「東成」を冠したことが、自ら生誕地を「署名」で残したことになり
、改めて「生誕地」が明らかになったのです。
望郷の念が在りながら、
「生誕地」を明らかにしたがらなかった蕪村にとっては、驚きです。
死期の切迫を感じたため、敢て「署名」で告げたのでしょうか。

蕪村生誕地が毛馬町であることが、
自作の絵画と鑑定された「蜀桟道図」の「謝寅」の号の署名によって、
改めて証明されたことは、
終戦直後の定まった「蕪村生誕地」以来、遂に更なる「証」となったのです。
このような滋賀県甲賀市美術館で鑑定は、実に素晴らしいことです。

とにかく上記の新証明は、
筆者主宰のNPO法人と大阪市立大学と共同で立ち上げている
「蕪村生誕300年行事実行委員会」の行事具体化躍進に貢献し、
同時に「蕪村生誕地毛馬町名」を一層広げるでしょう。
posted by 蕪村顕彰俳句大学 at 00:00| コラム | 更新情報をチェックする

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